俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

あいつが立礼をしていた。

なぜかホセ・カレーラスが聞こえてきました。
愛の讃歌、 ダイアナロスが歌っていた恋のプレリュード、アルゼンチンの歌、ひばりさんの川の流れのようにも歌ってはります。疲れてきました。早くレコード変えないかなあ。

俺はきのう飲み仲間であり、野球ではバッテリーを組んでいる相手であり、一緒に長い道中をしてきたツレの親父さんのお通夜に寄せてもらった。

なんだか久しぶりにツレのことで頭がいっぱいになった。コップやグラスで一緒によく飲んでいるのに、野球ではずっとキャッチボールをしているのに考えたりしているようでしてなかった。あいつがいろいろしてくれたのに俺は水くさい男だと思った。

親父さんが入院してから彼はしょっちゅう病院の帰りにひとりで飲んでいた。つい最近かなり早いうちから飲んでかなりきついことになっていた。何かに触れたんだろうか。その彼がきのう立礼をしていた。

仕事のあと喪服に着替えに帰って電車を乗り継いで向かう、お通夜でいろいろ感じてたくさんの奴と久しぶりに飲んで、そして家に帰って喪服を脱ぐまであいつのことがどこかにあったのかチョット深酒して帰ったのに家でもウイスキーを飲んでいた。しかもレコードをかけて。

あかん、今この店のレコードが「ひまわり」のサントラにかわった。あかん、あかんて。これだけはあかん。ヘンリーマンシーニ。あかん。あのソフィアローレン出てくる。あー、なんて店なんだ。あいつを誘おう。早く来いよ。

大人という字はダサい。

 古い仲間達と飲んでいた時に「そやけどライブもやっている店はええなあ」と俺が言うと、何人かの奴が意外なこというなあという顔をして俺を見た。
 ライブハウスに行っていた俺は、いつの頃からかライブもある店に行くようになっていた。上等の酒やそこそこの料理もあってクロークもあるようなところに行っていたら冒頭の「ライブもある店っていいよな」になったのだ。
 いつから俺はそんな大人になったのだ。「大人という字は大きい人と書くのねー」と日吉ミミいや違うアン真理子が歌いそうだ。日吉ミミは「恋人にふられたの」だった。
 ライブを店の料理や内装やサービスと同じように思うタイプの奴ではなかった俺もいつのまにかロックが錆びた。だからライブのことを店のおまけみたいな言い方になったのか。
 ライブハウスに行けばいつも何かが起こった。店を出るとライブ以外のことは何も覚えてないことが多かった。ライブのさなかに気づくことも多く、忘れるのでメモをしたいが、それを許してもらえないのがライブハウスだ。それでもメモを取ることが出来るのはそこと違う世界の奴なんだろうか。
 十月に京都の拾得で『ウエストポーチ』というライブがあった。大西ユカリも出るのでチョット行くと40代50代で満タン。酒のピッチも極めて早い。そんな中でキレキレのR&B、熱くソウルフルなバンドと歌が、高いレベルで炸裂。もう拾得は枯れたホットドーム。ゴキゲンが満開の最高の夜だった。
 こんなことが世の中のどこかで毎晩あるはずなのに俺はいったい何をしていたんだ。それをもっと伝えなくていいのか。便利で快適なところばかり行っていたらそこにはたどり着けなくなってしまうと思う。大人という字はダサい。そう思う。

水道屋の手元時代に俺は鍛えられた。

水道屋で手元をしていた頃、住み込みで働かせてもらっていた。親方宅の離れの二階のひと部屋で寝起きしていた。先輩の職人さんも何人かその離れで一緒だった。
 朝6時頃に起きて裏の洗い場に下りて寒い中、凍るような水道で顔を洗ってから本家に行って親方や親方の娘や職人さん達と朝飯を食わせてもらう。ほんまにやさしいおかみさんだったのでごはんのおかわりはいくらでもさせてもらえたが、朝飯は何となく二杯でみんなおさめていた。
 塩気のきいたおかずひと品と味噌汁、漬物は毎日ドボ漬が食卓の真ん中にありそれは自由に取ることが出来た。親方やおかみさんは話しかけてくれるが俺らはきちんと返事だけをし、ほとんど無言で5分ほどで食べ、家の前にある店(事務所)に行った。
 俺はいつももっと食べたかったが先輩の職人さん達(今思うとみなさん20代か30代前半だった。もっとおっさんに思ってたなあ。うーむ。)が「ごちそうさんですっ」と言って席を立たれるので俺も当然同じタイミングで立っていた。
 店でその日の仕事の段取りを親方と先輩達がされているあいだに俺は車をガレージから店の前に廻してきて、その日に必要な道具と材料を、現場の職長的な人に確認して俺ひとりで積み込む。うちの水道屋は基本的に野丁場(始まりから竣工までが長い比較的大きな現場のことを野丁場と言っていた、普通の家や小さな現場は町家と言っていた)がメインだったので一台の車に職人4人か5人乗り込んで30分から1時間くらいかけて現場に向かう。運転はもちろん一番若い俺である。道中のラジオは「おはようパーソナリティー道上洋三です」だった。中村鋭一の頃から行きしなのラジオはそうだった。
 現場に着いて道具と材料を運び、職長の指示で仕事を始める。その日に予定した仕事を完了させるというのが全員の目的なのだが、俺は手元(アシスタントのようなもの)として付かせてもらう職人から怒られないように1日をこなすというのが目的だった。
 仕事はだいたい二人ひと組でやり、必要な時だけ何組かが集まって仕事を進めて行く。手元は、職人が次にどの道具を使おうとするのかを察知して職人が使いやすい場所に置いたり、次に使うはずの材料の下処理をして職人の手元に用意する。道具を間違っても材料を用意するタイミングが早かったり遅かったりしても怒鳴られる。そして先回りしすぎても完璧に出来てもあまりよくないと俺は思っていた。
 12時になると昼飯を食う。おかみさんが持たせてくれた分厚いドカベンをコンパネの上やそこらで食う。食うて昼寝する。たまに大きい現場では同業の人らや同じ現場の職方らと現場事務所のメシ食い場で職人はいろいろやり取りすることもあるが手元の俺は昼寝が出来た。
 夕方の5時まで仕事して帰りも俺が運転する。帰りのラジオは野球がやっていたらもちろん野球。俺の記憶では「小沢昭一的こころ」とか「トヨタ・ミュージック・ネットワーク」とかが聞こえていたと思う。
 店に帰って道具や材料を降ろし、車をガレージに入れて鍵をブラブラさせて帰ってくると、住み込みでない職人さんらが店の湯飲み茶碗(紺の水玉)に酒を入れて飲まれている。「おっ!ひでお、お前もやれ」といつもいただいた。みなさん親方となんだかんだいいながら蒲鉾か漬物をつまんで一杯だけ飲んで帰るというのが慣習だった。
 それから住み込みの俺らは朝飯と同じようにおかみさんが作ってくれた晩飯をいただく。冬は鍋が多かった。ビールは親方のおごりで、酒は各自の一升瓶(俺は富翁の二級)を席の横に置いてメシをいただいた。そこからまた別の1日が始まるのであった。続く。
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昼からの安酒場には、いい服を着ていこう。

 最近、安い酒場がブームになっているようだ。安い酒場というかそんな店が流行るのは普通に考えれば当たり前のような気がするけれど、この頃の感じは社会ごと安い酒場に流れているような気がしてチョット俺の頭、いわゆるワイワイナワイモにハテナマークが出ている。
 京都でも昼から安くで飲める居酒屋がここ数年で増えてきたし街が賑やかになっていいのだが、なんだかしっくりこないのはなぜだろう。俺はヘンコなのか。しっくりこない理由をチョット考えてみた。
 こんな俺がいうのもなんだが、昼間から立ち飲みや安い居酒屋で飲むことがなんだかフルオープンになってきてつまらなく思っている。平日の昼間は働くものなのである。例え平日が休みの人でも、今日は平日だからと気兼ねしなくてはならないと思う。
 そしてどうしても飲みたければ、俺の場合はメシを食べに行って飲んでいた。寿司屋や食堂で飲んだ。お好み焼きを食いに行けばスジ焼やホソ焼やイカや貝を焼いてもらって飲んだ。大阪に行けば午前中からやっているフグ屋で飲んだ。そば屋はこわいのであんまり飲みには行かないが裏寺の「まつもと」や近所のそば屋にはよく寄せてもらう。
 昼から居酒屋で飲むのは誰かに叱られそうな気がするが、メシ屋で行きがかりじょう的に酒を飲むのは叱られても言い訳が出来るのだ。それを知っているからメシ屋での昼酒はセーフなんだと思っているのだろう。
 それでは午前11時から開店する大阪のリーチバーで昼下がりから飲むのはどうなるんだ。お前は平日の3時頃に終わることを目論んで中之島やロイヤルホテルで打合せをしているだろう、それはどうなるんだと、もうひとりの俺が俺を睨んでいる。
 バーはまた別の話なのである。バーには昼からも宵の口もない。そこにバーがあり、店が開いているなら誰に叱られることもない。俺たちはバーと対峙するだけだ。そこで飲むことのスタイルも含めて責任をとらねばならないから昼からのバーや宵の口のバーはその機会を得た瞬間にゴーという選択肢しかない。
 俺はこの雑誌が25年前に創刊して以来、特集記事や特別なミッション(今から考えてもそのミッションの意図がよくわからない)などを与えられて、街や酒やメシについて気が遠くなるほど書かせてもらってきた。
 もちろんその中には、昼酒や、昼下りの酒場、無断欠勤した午後の酒、待ち合わせまでに酔う男、酒バカではなく酒場バカでありたい、など親が泣くようなミッションの数々を25年間もこなしてきた。そんな俺が街のクライシスを感じているのだ。
 素人が昼から居酒屋で当たり前のように飲んだらあかん。もっと辛抱しなはれ。辛抱しただけ夜の酒がうまくなる。
 どうしても昼から飲まなあかんのなら、バシッと服を考えて行かなあかん。
   昼に飲んでいてキマるスタイルは、夜のそれよりはるかに難しい。上等のスーツや派手な服は昼の店で浮くし、ジャージや賢い低価格洋服では安い酒場に溶けてしまう。
   ちなみに無精者の俺は、ええ服をヘビーローテションで着ているのでカラダの型や匂いが染み込んだ、言わば俺自身の着ぐるみを作るときのような服や靴で飲んでいるのだ。四十年あまり街で飲んできてたどり着いたスタイルというより、行きがかりじょうそうなったのだ。
 もうひとつ最後にいっておこう。昼に飲むならそこでは出来るだけ笑わない方がいい。始めから笑ってしまえば台無しだ。笑って飲むのはまた別の話なのである。いよいよ俺もワイワイナワイモになってきた。あー、というしかない。f:id:vackey:20141108184808j:plain

たまらんものが目白ギュウギュウ詰めの季節。



 いよいよ十一月だ。だんだん寒くなるとともにたまらんものが目白押しになってやってくる。
9月に入ってからはフグ屋が二三ヶ月ぶりに営業を再開したし、市場では安くて美味しい紅ズワイガニが手に入る。
10月になれば牡蠣が出てきて行く店や飲む物を迷わせ、店の湯気が恋しくなってくる今頃には、わずかな期間だけ交差する脂乗るハモと松茸が土瓶蒸しの口から湯気を出して熱燗を誘っている。
 そして11月になると松葉ガニが解禁されコッペ(セコガニ、松葉のメス)がしおらしくなって現れる。出だしこそコッペも高いがちょっとすると小ぶりのものは安くなる。三杯で千円くらいで買える時もある。
 俺が子供の頃、ツレの家に行けばオヤツのように食べさせてもらえた。床に新聞紙を敷いてコッペを何人かで手で剥いて食べていた。
 カニの話で脱線するが、NHKを見ていたら深海の底に絨毯を敷いたようにカニでビッシリと海の底がうまっている映像を見たことがある。その時にカニをもっと食べさせてもらおうと思った。
それからムキになってカニを食べているときにカニを見るとその顔は怒っていた。
カニの話ばかりしていられない、寒くなればナマコがおいしくなってくる。「うまいナマコは冬至を過ぎてから」ともいうが、コノワタ生まれナマコ育ちの俺の場合は冬至まで待っていられない。
 そして12月になればさらにたまらんものが目白ギュウギュウ押し詰めになる。
 まずは奇想天外に旨い「丸新」や「丸京」製のコノワタがでる。これを毎年、シーズンの最初にいただく時には、将棋の羽生善治名人が勝ちを確信した時に指が震えるように箸を持つ俺の手も震えるのだ。コノワタにはいつも負けているのにどういうことだろう。
 師走、いわゆる年の瀬はもう美味しいものが百花繚乱。汐鱈が出る、ゴロンとした上賀茂のすぐきが樽に並ぶ、雲子が出る、ボテッとしたフグの白子が市場に並び、街の店々は暖簾から湯気を出している。

 この連載のコラムのテーマは実は湯気なんです。店や街だけではなく家の湯気も含めて、湯気はシアワセの象徴だと思う。湯気のあるところは必ず誰かいるしそこは乾いていない。心地よい寒さはあってもそこは冷たくないf:id:vackey:20141104171026j:plain

閉店しても店はシアワセをくれている。


 この春に京都の街の人間にとってはショックなことがあった。親しみやすい中華で愛されてきた河原町三条の「ハマムラ」が閉店したのだ。京都の中華の原点ともいわれた店であることとか河原町のかげりがどうとかではなく、子供の頃からよく通い大人になってからもずーっと月に二度三度は必ずこの店の広東麺を食べに行っていたものとして大変さびしいことだ。
 それは店がなくなったからさびしいのではなく、その店と共に在った自分自身の記憶やシアワセ資産がボロボロとなくなるような気がするからだ。ハマムラはまた他の場所で始められると思うがあの店は一旦消えた。注////ハマムラは、この秋に府庁前に新しくオープンされて喜んでます。
 店がなくなって残念と思うのは我々のワガママであるが、そのワガママの分だけ街と共にありたいと思って必死で街に通っているのだ。
 昨年末には先斗町の小さな鶏料理の専門店「房」が閉店された。木屋町六角の居酒屋「樽」も一年前閉店された。どの店も俺は随分世話になった。なんだか今、昔通った店がいっぱい頭に出てきた。
 裏寺六角通のお好み焼き屋の「菊水軒」のあの小さい鉄板台とおやっさんと名物カラカラ、裏寺蛸薬師の焼肉「陽気」の小さな黒板と継ぎ接ぎのカウンターと油で曇ってたひとみちゃんのメガネ。これまた裏寺の「中ぼて」はホルモン串もテールも手羽先も鬼のようにうまかった。
 夜中になると祗園は下河原の「よあけ」という食堂で出し巻きと大盛りのごはんをほおばった。朝方になる時は卸売市場の「平井食堂」へ一目散に向かった。おかずや小鉢などの作り置き式の棚がある食堂はついつい食い過ぎてしまい後悔することが多いので俺は出来るだけ行かないようにしていたが、ここだけはもうひとりの俺の許しが出ていた。ぎっしりの人をかき分けるようにして棚に並んでいる新鮮でボリュームのある刺身とおかずを取って名物の茶碗蒸しと白ごはん大が必須科目だった。
 どの店も全部、今現在でも、俺のシアワセ度あるいはシアワセ資産を形成してくれている。これについては俺のまわりの多くの先輩方も同意してくれているから間違いはないだろう。あー、というしかない。f:id:vackey:20141029173436j:plain