俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

水道屋の手元時代に俺は鍛えられた。

水道屋で手元をしていた頃、住み込みで働かせてもらっていた。親方宅の離れの二階のひと部屋で寝起きしていた。先輩の職人さんも何人かその離れで一緒だった。
 朝6時頃に起きて裏の洗い場に下りて寒い中、凍るような水道で顔を洗ってから本家に行って親方や親方の娘や職人さん達と朝飯を食わせてもらう。ほんまにやさしいおかみさんだったのでごはんのおかわりはいくらでもさせてもらえたが、朝飯は何となく二杯でみんなおさめていた。
 塩気のきいたおかずひと品と味噌汁、漬物は毎日ドボ漬が食卓の真ん中にありそれは自由に取ることが出来た。親方やおかみさんは話しかけてくれるが俺らはきちんと返事だけをし、ほとんど無言で5分ほどで食べ、家の前にある店(事務所)に行った。
 俺はいつももっと食べたかったが先輩の職人さん達(今思うとみなさん20代か30代前半だった。もっとおっさんに思ってたなあ。うーむ。)が「ごちそうさんですっ」と言って席を立たれるので俺も当然同じタイミングで立っていた。
 店でその日の仕事の段取りを親方と先輩達がされているあいだに俺は車をガレージから店の前に廻してきて、その日に必要な道具と材料を、現場の職長的な人に確認して俺ひとりで積み込む。うちの水道屋は基本的に野丁場(始まりから竣工までが長い比較的大きな現場のことを野丁場と言っていた、普通の家や小さな現場は町家と言っていた)がメインだったので一台の車に職人4人か5人乗り込んで30分から1時間くらいかけて現場に向かう。運転はもちろん一番若い俺である。道中のラジオは「おはようパーソナリティー道上洋三です」だった。中村鋭一の頃から行きしなのラジオはそうだった。
 現場に着いて道具と材料を運び、職長の指示で仕事を始める。その日に予定した仕事を完了させるというのが全員の目的なのだが、俺は手元(アシスタントのようなもの)として付かせてもらう職人から怒られないように1日をこなすというのが目的だった。
 仕事はだいたい二人ひと組でやり、必要な時だけ何組かが集まって仕事を進めて行く。手元は、職人が次にどの道具を使おうとするのかを察知して職人が使いやすい場所に置いたり、次に使うはずの材料の下処理をして職人の手元に用意する。道具を間違っても材料を用意するタイミングが早かったり遅かったりしても怒鳴られる。そして先回りしすぎても完璧に出来てもあまりよくないと俺は思っていた。
 12時になると昼飯を食う。おかみさんが持たせてくれた分厚いドカベンをコンパネの上やそこらで食う。食うて昼寝する。たまに大きい現場では同業の人らや同じ現場の職方らと現場事務所のメシ食い場で職人はいろいろやり取りすることもあるが手元の俺は昼寝が出来た。
 夕方の5時まで仕事して帰りも俺が運転する。帰りのラジオは野球がやっていたらもちろん野球。俺の記憶では「小沢昭一的こころ」とか「トヨタ・ミュージック・ネットワーク」とかが聞こえていたと思う。
 店に帰って道具や材料を降ろし、車をガレージに入れて鍵をブラブラさせて帰ってくると、住み込みでない職人さんらが店の湯飲み茶碗(紺の水玉)に酒を入れて飲まれている。「おっ!ひでお、お前もやれ」といつもいただいた。みなさん親方となんだかんだいいながら蒲鉾か漬物をつまんで一杯だけ飲んで帰るというのが慣習だった。
 それから住み込みの俺らは朝飯と同じようにおかみさんが作ってくれた晩飯をいただく。冬は鍋が多かった。ビールは親方のおごりで、酒は各自の一升瓶(俺は富翁の二級)を席の横に置いてメシをいただいた。そこからまた別の1日が始まるのであった。続く。
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