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俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

スナックで歌を。

見知らぬ人の歌を聞いている俺は、
遠いところまで来てしまったのか。

 雑居ビルの中の薄暗い小さい店で何のご縁もない方の歌を聞いている自分がいて、目に前のグラスの酒に頓着することもなく歌の歌詞だけを追い続けている俺がいる。
 酒も歌もあまりすすめることもないママがたまにカウンターの前にやってきて溶けかけた氷だけが残っている俺のグラスを持ち、スローな仕草で水割りを作りながら「なにか歌う?」とたまに聞いてくる。それはスナックならではの、ためらう素敵な瞬間だと思う。
 歌うけれど今歌う感じではないので歌わない。今すぐ歌いたくないけど間があくならすぐ歌う。ママが好きそうな歌で俺が歌えるものはなんだろうと思ったり一緒に来ている顔ぶれを見て歌のフレーズを思い出したりする、スナックな世界がある。

歌はそのスナックの時空を
震わせて濡れさせる。

歌は泣きたいことをチョットほろ苦い洒落にしてくれたり、今日はこのままこわれてもいいのよと歌詞がメロディーが囁いてくれたりする。
 そして、惚れるという言葉も西風が笑うということも、もうひとりの俺がいることも守れない約束がカレンダーを汚すことも、フレーズになって今も俺に刺さっているし、その素敵さもスナックでの歌が教えてくれたしシビレさせてくれた。

琴線が露出しているので、
よくこわれてしまうのだ。

 スナックはその人ならではの琴線が露出していることが多いので歌のワンフレーズだけでいとも簡単にこわれてしまう。たとえそれが歌のヘタな見知らぬおっさんが歌っていたとしてもそうなる。
 本当にみんなスナックでボロボロとよくこわれる。
 うちの親父は大橋節夫の【ズボンの折り目】という歌で泣く。「ふたりで見つけたカトレアの鉢植えは 今でも枯れずに咲いているかしら」と誰かが歌っているのをハモりながら目を閉じてグラスを持って泣いていた。俺は何度か見た。
 俺は黒木憲の【別れても】を歌って自分で泣きそうになる。「二度とこうして逢えないだろうが 今ならいえるさこの気持 あの時俺が大人なら別れはしない離さない」と歌いながら水割りのグラスの上げ下げストロークが倍速になる。遺伝子には勝てない。
 十年ほど前、当時いつもなぜか黒いパンストをはいてスナックでハイボールを飲んでいた32歳の大阪の広告代理店の女性は、【大阪しぐれ】の2番の「ひとつやふたつじゃないの ふる傷は 噂並木の堂島 堂島すずめ」の部分を誇らしげに歌い、俺はその続きの「こんな私でいいならあげる 抱いてください~」に、期待しながらもいつも思わず目をそむけてしまっていた。

歌をうまく歌いたいのではなく、
その酒場で歌をなぞりたいのだ。

 いつも【ふるさとの話をしよう】を歌っていた岸和田の編集者は最近なぜか丸山圭子の【どうぞこのまま】を椅子を叩いて歌いながら恍惚状態になるし、木屋町ボトルキーパーズというバンドを率いるエディー・片山はスナックに行けば必ず星野哲郎作詞の【兄弟船】の「型は古いがシケにはつよい」というフレーズを腹の底からいつも響かせて歌っている。
 ドロ目の街の先輩は「みんなあんたがおしえてくれた 酒もタバコも うそまでも」と重くなったまぶたをさらにドロリとさせながら指先を睨むようにいつも歌う。
 歌はうまく歌えないほうがいい。十代の頃からずっとスナックやラウンジやらに通い、たくさん飲んで歌ってきてそう思う。歌がうまいのは罪だとも思う。
スナックの世界は、強弱や高低や大小などない生態系なのだ。
 うまい酒や素敵な出会い、歌が上手に聞こえる抜群の音響設備やヒーローになりたいことや満足度100%の世界など、求めたいものがハッキリとしているならスナックに行かない方がいいと思う。
 街のスナックというのはお客が求めるものが最優先されるところではなく、そのお客さんも含めたその日その瞬間の店そのものを愉しむところなのだ。
 しかも街の酒場に行けば自分に都合のいいことばかり起きない。ママに話しかけると睨むおっさんがいたり、場が無茶苦茶になるようなアップビートの曲を何曲も若者が歌ったり、歌いたい歌がほかのお客に先に歌われたり、隣で飲んでいた中年の人から昔話をエンドレス聞かされたり、あると思っていたボトルが仲間の誰かに飲まれてほとんどカラだったり、ママに怒られたりするのがスナックだ。
そこで起こることすべてを肯定することから街のゴキゲンが始まる。
 思い通りにしたければ自分たちだけしかいない限られた空間で遊べばいいし飲めばいい。けれども無菌状態の中で時を過ごしても熟していかないし発酵しておいしいものに変化することはない。たとえあったとしても予測された変化であったり、計算できる満足しかない。
 街と人と歌と酒が絡み合って何かが熟成される酒場、それこそがスナックなのだと思う。日本ならではの素晴らしい文化だと思う。