俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

昼から飲みたくない三つの理由。

 俺は朝や昼に酒を飲みたくない。それにはいくつもの酒飲み特有のチマチマとした理由や人には説明しにくい情けないトラウマがあるのだが、最も大きな理由は、実は出来るだけ酒を飲みたくないからだ。
 じゃあ飲まなければいいじゃないかと言われるかも知れないが、そうはいかない。酒とは長い付き合いだし、酒が俺に近寄ってきて「今日はどうする」と聞いてくるほど今もいい仲だ。
 もちろん飲んでひどい目にあったこともあるけれど、酒に助けられたことも何度もある。そんな損得という物差しで、酒を酒場を判断するものではないとバッカス福音書にも書いてある。
バッカス福音書その3の1の4章”にこうある。
 “酒の傍にいなさい。酒の力を借りなさい。されど酒には力はない。酒は汝の穴であり影である。すなわち酒の有無は無用。さあ今宵も乾杯をしなさい”とある。
 要するに酒はあなた次第だということだ。その場、その時の酒が、空気が、うまいかどうかなのである。それを考えてしまうから貧乏性の俺は、酒を夕方や夜に残しておきたいのだ。
 昼から酒を始めれば夜には間違いなくグタグタになっている。途中でリセット出来ないタイプなのだ。
 昼に飲みたくない二つ目の理由は、叱られるからだ。
 俺は今55歳で両親も健在で82歳の親父は今も毎日街場で飲んでいるし、俺が昼から飲むことにとやかく言うこともない。家内も酒のうまさをよくわかっているタイプで昼から一緒に飲むことはあってもそれを叱ることはない。
 そのうえ、俺には酒場ライターという肩書きもあるので「あー、あの人は飲むのが仕事だから」と思われるぐらいで廻りからもあれこれ言われない。
 けれども昼から飲むのは叱られることだと俺は思っている。だから昼から飲みたい時は寿司屋や食堂で飲んでいる。誰に対してということでもないが言い訳が出来るからだ。昼から居酒屋や立ち飲み屋に行けば言い訳できないが、そば屋やお好み焼き屋なら言い訳が出来る。
 そして昼から飲まない最も大きな理由は、朝や昼から飲む酒ほどゴキゲンなことはないということを深く知っているからだ。
 元旦の朝に飲むお屠蘇、一年に一度の祭が始まる前の半被に着替えてから飲む酒、棟上げの時の紺に大きな水玉の現場茶碗で飲む酒、ローマやパリの下町で飲むワイン、中南米の露天で真昼に飲むラムやテキーラ、そして誰もいない何の予定もない午後に家で飲む無頼酒。
 朝や昼から飲む酒はゴキゲンの威力が凄いことを身に染みて知っているので、俺は出来るだけそれをしないようにしているのだ。
 くどいようだが酒は何もしていないのだが、そこにはゴキゲンがセットになっている。もうこうなれば今から飲むしかない。あー。
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ケガをしなくなったことについて。

 子供の頃はよくケガをした。膝や肘にはいつも赤黒いカサブタがあったし、指もよく切った。中学や高校に行くようになると膝や肘のカサブタどころではないもう少しきついケガをするようになった。青年になってからもバイトや仕事の種類に関係なくケガはしていたと思う。
 それがどうだろう、年々ケガをしなくなってきた。私は今、50代だがほとんど切り傷や擦り傷はしなくなった。それを近所の居酒屋の私と同世代の主人にいうと「そういうたらワシもケガせんようになったなあ。指切ったん5年以上ないな。その分いろいろ痛い思いをしてるけどな」と言って魚をさばきながら笑っていた。
 漬物屋を営んでいる私の場合、野菜を洗い、杉樽やポリ樽を洗ったり動かしたりして、道具や店の修繕を毎日のようにしているのでケガや指を切る可能性はオフィスワークよりかなり高い。居酒屋の主人にしてもそうだろう。
 ではなぜケガをしなくなったのか。それは立つことが出来るようになり自由に身体を動かせるようになった5歳の頃から40年50年以上かけてなんだか黒帯になったのだと思う。走ることは10代の時の方が速かった。今はあの頃の半分以下のスピードでしか走れなくなっている。その分、我々は40年以上かけて何かを会得したのだと思う。
 こんなことはあらためて私みたいなものがいうことではないが、何かが減る分、何かが増えるのだ。だとしたら目の前にあるガラスのコップに入った酒が減って何が増えるのだ。ここは洒落ですますところではない。しっかり考えろイノウエ。イノウエのイノはイノベーションのイノだと自慢気にいっていたじゃないか。コップの酒が減って何が増えるのかさあ答えてみろ。
 二十代の頃ならコップの酒が減る分だけ二度とない時間が増えるなどといきって答えていただろう。しかし五十代の今、目の前の酒が減る分だけ気づくことが増える。酒が気づかせてくれるのではない。いわば酒を飲めば黒帯になるのである。しかし気づく力が増えることは有り難いことだが酒飲みの場合たいがいそれは錯覚である。しかも酒飲みが黒帯になるほど面倒なことはない。ただ、酒を飲むことによって小さなケガをし続けることで大きなケガを回避することは出来るのだと思う。
 ケガすることは様々なことを現している。
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イノウエのイノは、 イノベーションのイノである。


 なぜここ数年ずっと俺がスパイやスパイ度に妙にこだわるのか。それは自分自身の劣化を自覚し始めたからなんだと思う。劣化したことを自覚をするのがV9を達成した当時の川上監督の年齢を過ぎてからなんて遅すぎるとは思うが、俺はきっと見て見ぬふりをしてきたんだと思う。そして劣化していく自分自身をもうひとつ作ることでそこから逃れようとしていたのかも知れない。もうひとつの自分自身、白土三平風にいえば「カゲリ」かもしれないし今流行り風にいえば「アバター」か。違うな。
 正味の話、今まで出来ていたことが微妙にずれていたり、あれっと思うようなことが最近多くなってきているからだ。グラスを倒すまではいかないがバーで飲んでいる時に手の肘がグラスに当たりそうになってしまいヒヤッとすることがあるし、割烹や居酒屋のカウンターで褒められるほどスマートに一粒ずつ箸でつまめていたイクラが最近チョットおかしい。完璧にほじくれていたコッペもチョット面倒くさい。使い慣れた道具も指にどうも馴染まないときがある。記憶や計算などはいうまでもなく劣化している。
 それを埋めるためにどうしても必要になってくるのがスパイ度なのである。スパイ度というのは、映画や小説で誰もが知っている、主役のスパイ的な濃度がいかに高いかということを指している。
 ショーン・コネリーやダニエル・グレイグのジェームス・ボンドマット・デイモンのボーンシリーズやスパイではないがゴルゴ13などというところか。
 俺がよく考査しているのはそのスパイ達が、このバーにこの時刻に入った場合、カウンターのどの席に座りどのタイミングで何の酒をいかに空気を乱さずにオーダーするかや、水割りかロックかどっちを頼む方がこのバーは得なのか。またそのスパイが、喧噪と煙にまみれたこの見知らぬ街の居酒屋で熱燗を飲もうとする場合、店の状況や注文状況をいかに察知し何を注文すれば最も早くアテが出てくるのか、注文したものが出るのが遅い場合いかにさりげなく男前にイヤミを少し含めながら伝えることが出来るかどうか、勘定の仕方はいかにスパイ的に行うかなどを俺は後輩達に指導しているのだ。
 そうすることで俺がいかにスパイ度が高いかということを口がパクパクになるほど表現しまくり、どんなことでも可能にするスパイ像のような俺のアバターを作ることで劣化した自分を水あるいは酒で溶かしているのだろう。
 少し前に、岸和田の男とホステス編集者が忙しい時期の京都に来たので昔から行ってる店でチョット飲みながら打合せをしていた時に俺が「ここのあれはもひとつうまないしのー」と言うと、岸和田の男が「そのうまないところがこの店のええところやないかい、うまかったらあかんのや」と言ったので、やっぱりこいつはよーわかってるやっちゃなと俺は本当に感動した。そしてこれはこの先どうなるかわからんし忘れたらあかんと箸紙にそのフレーズをメモしていたら、ホステス編集者が「あー、ついに現場を見てもうたわ」と嘆くような喜ぶような唇をしていた。そして劣化を隠すためにスパイ度を高い目に設定している俺とよーわかってる岸和田の男の写真を撮った。そしてその写真に写っていた二人の男は痛々しかった。あー、というしかない。

ずっと入れなかった店。

 京都以外で暮らしたことがなく、子供の頃から繁華街を走りまわり若い頃から街のさまざまな店に行き始め、時代も店も変わっていく中で40年ほどやってきた俺が、二十年以上も気になりながらどうしても暖簾をくぐれなかった店がある。
 二十代や三十前半の頃はどこでも行ってやろうと思っていたので、縁がなくてもその店がどんな店か全く知らなくても扉を開けていけそうなら適当に飲んでいた時もあったし、街に出て誰も全く知らない店に飛び込んで飲むということが仕事な時もあった。もちろん食べログもネットもなかったし情報誌とも縁のない店の扉を勘で開けて飲むというミッションばかりだった。行った店は京阪神だけで五千軒以上になる。
 そんなことをしてきた男なのに地元京都の、しかもホームグランドとでもいうべき裏寺周辺にある居酒屋の扉を開くことが出来なかった。暖簾を長いことくぐれなかった。
 会員制という札があるわけでもなく、一見を拒むような業態でもないけれどその居酒屋の扉を長いこと開けられなかったのは、あまりにも佇まいが美しいので、その中のバランスを壊しそうな気がしたので触れられなかったんだと思う。
 店には行っていい店といけない店があるのだ。雑誌やネットで見てその店のことを知り行っていいことを確認できたとしても、その店の前で躊躇したり、扉を開けた瞬間に「間違いました」と言って店に入らなかったりすることは生き物として当然だと思う。
 例えすべてのものを持っている人であっても行っていい店と行けない店がある。それがあるから街は素敵なのだと思う。行けない店などないと思う人だからそこへ行ってはいけないということが往々にしてあるのだ。まだまだ街は我々を泣かせてくれる。あー、というしかない。
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旬のものは、もう少しゆっくり出そう。

 漬物屋が言うのもどうかとは思うけれど、いつの頃からか旬というか季節を感じさせるものが街や店に出るのがどんどん早くなってきている。
 9月になると松茸が話題になりテレビのCMからは暖炉の前でクリームシチュー的な映像が流れ始める。まだうちの店では半袖を着て青瓜を漬けていたり水茄子を塩もみしているのにテレビでは騒がしい番組がお鍋の季節の到来だと叫んでいる。
 その季節の旬のものがシーズンで初めて出るとき、いわゆる「はしり」のものが出たときはトピックなニュースになることはよくわかります。
「何々の初出荷が始まりました」「何々の初競りが行われました」「今年の何々は色づきがいいようです」そんなニュースや案内を見て「あーもうそんな季節か」と感じながらの一年なのでそれも悪くはありません。
 けれども年々少し早くなり過ぎているような気がする。季節を先取りした方がよく売れるのも現実ですが、それによって本当においしい「旬」の時には食べ飽きそうな感じがするし、その食材そのものが愛おしくなる「なごり」の頃には次の季節の食材に目を奪われている。
 こんな風にも思う。子供の頃に例えるなら「はしり」は走りが速かったり運動神経が良くて人気者、「旬」は正義感が強くて面倒見も頭もいい学級委員長、そして「なごり」はあの時のあいつ、そんな気がするのだ。
 季節を先取りするものや新しい何かばかりを求めていてはいつも追いかける状態になって疲れるような気がするし、モノを追わずに食卓にあるままの季節で酒が飲めれば本望。それがわかっていても「あれはまだか」という気持ちが湧いてくるのが酒飲みだ。
 すぐきがお好きな方はうちの店に来て「今年のすぐきはどうや」とよく聞かれます。そのどうやは「おいしいか」や「いい状態か」ではなく「いつぐらいから出るのか」という問いであり、「早やく食べたいなあ」という素敵なメッセージが含まれているシアワセ度の高い問いなのだ。
 「すぐき」や「このわた」は、街が師走に入って何だか慌ただしくなり佳境を迎えた頃に「おー今年初めてやなあ」と感激しながら飲んでこそシアワセだ。
 季節の食材はそれそのものではなく、その食材の向こうに見える時間や記憶に値打ちがあるのだと思う。あー、大きいすぐきで一杯やりたい。

今年はロックでいこう。

パリーグの男と行きがかりじょう旅団。

 このコラムには随分といろんな奴が独特の名でこのコラムに登場してきた。
 岸和田の泣きの編集者、ワイン10本男、キレた服屋の親父、左門豊作の弟、泣き坊主な街の先輩、木屋町ヨーダ木屋町のハゲ軍曹、木屋町の苦労人、近所の広告代理店の男、悲しきサラリーマン、戦後人生、泣きのドイツ人、酒ピエロ、ミスターグラフィック、226の男、岸和田の角行の酒屋、ホステスな美人編集者、天王寺の野球小僧、アフガニスタンでピンクローターを売る男。
 草刈マメ夫、くわえさなぎのミドリ、豆さらしの加代子、デニーロの顔になるママ、マキさんの紹介での女、片栗粉の女、阿倍野の屈託男、ナメクジナンパ野郎、モアイ、木屋町待田京介、初代・酒でパー、着物を着ている祇園の黒人ママ、ケルト井上、伏見のおっちゃん、モカマタリ。
 ドロ目の街の先輩、石屋のトーテムポール、八百屋のトム、ポエムな貿易商、火曜サスペンスの女、黒豆、黒豹ライター、ウルテベイビー、ひとり暮らしの子犬、ラブアタックな女、京極小町、深夜のコンバット、ミスター身上潰し、木屋町ゼロ戦木屋町のミスマイアミ、団体では「アゴ族しゃくれ協同組合」や「行きがかりじょう旅団」などそうそうたる名前の人達が登場してきた。
 まだまだあるがこうして名を連ねるだけで原稿量の三分の一に達してしまったのでもうやめるが、コラムに登場してきた人の中で最多登場というか最も酒場社会に影響を与えたのがパリーグの男である。
 俺がこのパリーグの男と初めて会ったのはハタチ過ぎの頃だった。その頃の彼は四条木屋町にあった「ディスコ・ゼノン」でDJをしていた。
 その店はちょっとイモくさい系のディスコでDJが曲と曲のあいだに次の曲はどうのこうのとしゃべる系の店だった。それでも当時の最先端のスカとかニューウェイブ系のタテのりの曲がよくかかっていた。
 その頃から彼はもうエディーという名で呼ばれていた。
 余談になるが全部余談だが、当時、ジミークラブのジミー、トミーやボビー、DJのジョニー、カメラマンのハリー、アップスクラブのテリーとドリーの双子、レイチェルやキャサリンも街にいた。俺はその当時まだバッキーではなく誰からも「ひでお」と呼ばれていた。
 エディーは当時、木屋町のディスコ系不良軍団とよく道中していたので俺とはちょっと生きる世界が違うと思っていたけれども、行く店行く店でよく会った。それでもちょっと話すだけで距離をとっていたが、「クックアフープ」という店が出来てからより頻繁に顔を合わすようになり、ある日隣同士で飲んでいてプロ野球の話になった。
 彼は異常に詳しかった。しかも昔のパリーグのことになると唾を飛ばしまくって熱く語ってくるので、明くる日に早い時間から裏寺の「たつみ」で会ってもう一度きちんとその辺の話をしようじゃないかということになって俺達の幕が上がったのだった。
 プロ野球の話、パリーグの話、映画の話、音楽の話、湯村輝彦の話、酒場の話、小説の話、街の先輩の話などいくら時間と酒場があっても足りないくらいだった。
 そして2002年、彼はとうとう街の酒場をウロウロしている奴らばかりで創設した野球チームの監督に就任した。その名も「エディーズ」。そのユニフォームを持っている奴はなんと60人を超える。納会や新年会や決起大会など試合よりも宴会が圧倒的に多い球団である。ちなみに俺の登録名は「井上・兄」である。実に洒落た球団だと思う。