俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

俺はいちびったイモの外国人だった。

 ここ数年で京都も外国の旅行者が滅茶苦茶増えた。大阪でも東京でもものすごい勢いで増えているのだと思うけど、京都は街が小さくあらゆるものが密集しているところなので外国の人が多くなると街角の風景が一変する感じがする。特に俺が働いている錦市場は道幅も狭いのでカラの大きい欧米人が団体で歩いていると前も店も見えなくなるし「あれっここはどこ」な感じがする。アジア系の人も山盛り来ているので早口な言葉がそこらじゅうから聞こえてくる。円安でもあるからか何だか外国の人の元気がいいように思うのは俺だけか。
 漬物屋としては外国の人が増える分、日本の人が若干減るのでなかなかきびしい戦いだ。特にうちの店は、錦市場の店頭に杉樽のヌカ樽がズラッと並び、そのヌカ床の上にヌカ漬がたくさん積み上がられているので外国の人は必ず足を止めて写真を撮っている。俺はそれを見て「ヌカ樽はフォトジェニオである」と宣言したこともある。
 でも写真を撮ってしまうのはよくわかる。俺も外国に行けばフランスでもイタリアでもアメリカでもアジアでも韓国でも必ず市場に行って珍しい食材や店を見つけると思わず写真を撮ってしまっていた。日本人が食さない動物や虫や見慣れない魚などの食材を指さしたり驚いている表情をしたりして写真を撮ったこともあった。
 ヌカ床の匂いがガンガンしていて、杉樽の上に色がくすみしなしなになった古漬が積まれている店の前で「オー!ノー」な表情や「ワーオ」みたいなノリの写真を撮ってばかりいる外国人旅行者。一緒に来ている仲間と騒ぎながら店の前で悪ノリするアジア系の旅行者。食の市場に合わないやたら小綺麗なルックスをしてモードな革靴を履いている若いアジアなカップル。少し覚えてきた日本語であれは何これは何と質問攻めするすばしっこい旅行者。そのどれもなんだか見覚えがあった。
 それは俺だった。若い頃の俺はたぶん外国で「なんやあいつ」とずっと思われてきたと思う。バンコクに行った時はツクツクの運転手に無理を言って三時間ほど運転をさせてもらってお客も乗せたし、パタヤではキックボクシングのリングにも上がらせてもらった。
 このミーツが創刊する前の雑誌では、ニューヨークに行って他の雑誌に紹介されたことのないチョット危ないナイトクラブを4ページか6ページで紹介せよというミッションを受けた。現地の様々なタイプの遊び人達と合流して壮絶なクラブばかり取材した。ドラッグクイーンが始まった頃だ。信じられないほど恐くてカッコイイ店もあったしゲイかレズオンリーの店もあったし午前五時からオープンするクラブもあった。たぶん俺は何も知らないチビの外国人だったと思う。
 天安門事件があった頃の上海に取材で行った時は映画「ラストエンペラー」のロケでも使われた迎賓館のようなホテルに泊まらされたのだが翌日の朝なぜかわからないがその迎賓館の中庭で水道工事をしていた職人らに混ざってスコップとパイプレンチを持って工事を手伝っていた。
 ローマでは明治屋の紙袋をバッグがわりにして街をうろつき二日目に見つけたバーを駅にして六日間で十回は行った。ルーチンにするのはイチローと俺は似ていてソウルに行くと毎朝、鶏1羽鍋をひとりで1羽以上食べるし銭湯も決まった時間に行く。
 ということで俺はまさにいちびっていた外国人だった。いや、いちびったイモの外国人だったと思う。今思えばとても恥ずかしいが、今は若い頃より行動が地味になっただけでやっていることはあまり変わっていないかもしれない。
 先月号では、俺はパクリにパクって生きてきたと書き、今月号ではいちびったイモの外国人だったと吐いた。本当はもう少し格好いいことを書きたい。あー、というしかない。キスして帰りたい。