俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

異形の者達のための、街の運動神経養成ギプス。

 
   もともと文章を書く人ではなく昔のアメリカの広告代理店風に言えばコピー担当ではなくアートディレクション担当だった俺がこうしていろんな雑誌や新聞にコラムを連載したり文章を書かせてもらうようになったのはこのミーツリージョナルのおかげだと思う。
 当時の岸和田の編集者に「そういうにゃったら、おまえ書けや」的に始まったのだが、初めは原稿用紙に0.9でBのシャーペンで書いていて、文がおかしくなったら何行も消しゴムで消してまた書き直さなあかんわ、字はメチャクチャやわ、あんまり漢字も知らんしかなり面倒な仕事だった。それで、もう書くのやめるわと申し出ると岸和田の編集者が「かまへんかまへん全部ひらがなで書いてこいや、俺らが全部直したるよって。整理なんかせんでもお前が酒場でしゃべってることでええさかい」というので仕方なく続けた。
 けれどもラブレターを書いたことのある俺にとっては、文字や文体が賢くなかったり格好良くなくても俺の中の何かをクリアしたものでないとやはり書いたものは渡せなかった。初めにそれを読む奴が同い年の岸和田の編集者や左門豊作の弟な編集者であっても、乾いた紙のような原稿を渡すのはいやだった。
   そのうちに原稿を事務所で書くようになりマックを使いメールで送信するようになり文字調べや消しゴムから開放されたけれど、スラスラとは書けないのでちょっと書いては他の仕事をしたり飲みに行ったりラーメンを食いに行ったりしながらの「チョイ書きシステム」で続けてきた。
 今はもっと細かいチョイ書きシステムを採用している。居酒屋の箸紙やバーのコースターにチョット書いて明くる日になってそれを希釈して書いて、漬物屋でヌカ漬を販売して、休憩時間にうどん屋でスポーツ新聞を読んだ後に携帯でチョット書く。それを3日ぐらい続けて一本の原稿を書いている。そんな長い原稿や難しいものを書いてるわけではないが、あまり本も読まず文をもともと書く奴ではなくデスクにあまり座らない人間だからこの方法になった。
   もともと運動神経がよくなかった俺が大人になって始めた草野球で球も遅いし鋭い変化球もないのにほとんど失点しないクローザーになれたのも、真夜中のボーリングでたまに200以上出すのも、年に2回ほどしかやらない付き合いのゴルフコンペでニアピン賞をとったり90くらいでまわれるのも、見知らぬ街を歩いていてフッと入った店が抜群の居酒屋やバーやスナックだったり、英語表記のない外国でバスや電車を適当に乗れるのも、滑舌最悪なのにトークショーや司会が出来るのも、俺は俺が生きる環境で進化したからだと思う。
   まるで波打ち際の磯辺や湿地帯のような複雑な環境の中で進化した生き物なんだろう。その証拠に俺が十代の頃、俺の身体は普通だったし面接に通る平凡な顔をしていた。しかし今はとても不気味な身体で不思議な動作が出来るようになっている。踊りも暗黒舞踏的になったし、笑っているのか酸欠になっているのか不明のまま星飛雄馬泣いて帰るを演じている。しかも相手は街のもっさいレクター博士達や食い意地だけアンジュリーナ・ジョリーな女性ばかり。花形満なら「不憫だ、星くん。なぜなんだ」とバットを俺に向けながら大粒の涙を流していたはずだ。
   先日、なぜ黙っているのずるいわと問われて「口が開かへんねん」と答えたら「ほな飲まんとき」と言いやがった。俺が、黙る口と飲む口の二つ持つように進化する日は近いと思う。さすがにそれはジョージ・ルーカスも想定していないだろう。それにしてもスター・ウォーズの中のバーで飲んでみたい。007には扱いというか異形の者への視点が違うから登場したくない。
   俺が京都の博士達と開発しようとしている「食い意地スカウター」よりも「街の運動神経養成ギプス」の方が早く実現するだろう。この原稿は東京で書いている。あー、というしかない。

キャプション
このあいだ他の雑誌で「酒場でのことは夢まぼろしだ。それがわかるまで時間がかかった」という原稿を書いた。この連載では「異形の者達のための、街の運動神経養成ギプス」を泣きながら書いた。いよいよ核心に迫ってきたと感じている。けれどもスタンスを固定しているからチョットおもしろいのであって、スタンスをワイワイなワイモにすれば何のことかわからないのでおもしろくない。もう帰りたい。

誰がためのギムレットなのか。

 30代の半ばになってからはいつもギムレットを飲んでいた。でもこうしてチョット振り返ると条件が揃わないと飲んでいなかったように思う。夏でも冬でも飲んでいたが遅い時間には飲まなかった。ギムレットを頼めるのは昼下がりか宵の口だけだ。遅がけの酒場ではギムレットを注文できないでいる。ギムレットはファーストショットなのだ。
 二十年ほど前だったか俺の連載コラムを担当してくれていた女性の編集者が年に一度くらいは打合せしましょうよというので、5時に中之島のリーチバーで待ち合わせをしたことがある。バーで打合せは出来ないが顔を合わせることで打合せの8割は完結するんちゃうかなあと言って電話を切ったような記憶がある。当時はほんとにそう思っていた。
 4時過ぎにリーガロイヤルホテルに着く。ホテルの玄関先では石の上の靴音。中に入ると絨毯で靴音が消え、しばらく歩くと大理石のタイルで高い音の靴音になる。そして結界を超えてリーチバーに入ると木煉の床を靴で叩くかのような靴音になる。木と革が奏でる打楽器のように響く。このバーの凄さのひとつだ。
 誰もいないカウンター。席に着く。注文するまで一拍置くのは気持ちを整理するためだ。空腹だしノドが乾いているし待ち合わせの時間まで30分以上ある。ギムレットを飲むにはお誂えの条件が揃っている。バーテンダーと視線が合ったその瞬間にギムレットをミストでお願いする。
 中之島のリーチバーでこの時間にギムレット、それだけでこれからどうなるかだいたいわかる気がするのだが想定通りにコトは運ばないし運んではつまらない。ギムレットが目の前に来る。ミスト状の氷がキラキラしている。飲む前にゴクリとなりその瞬間に飲む。きついがうまい。最初の一杯はキックがたまらない。空腹の胃のヒダが溶けているのがわかるがグッといく。グラスにはキラキラした氷だけが残る。2杯目は氷が残ったグラスを使ってもらう。やわらかくなるからだ。
3杯目を頼もうとした瞬間に編集者が入ってくるのが見えた。いつもより女らしい気がするがそこは無視しよう。「早よ着いたし先に飲んでてごめんな」といいながら、わざと何も聞かず3杯目のギムレットをおかわりすると彼女は私も同じものをと言った。
今オーダーしたものが出てくるまでに打ち合わせは完了させなければならない。まるでスパイ度を試されているようだ。彼女の目はこれから始まる何かを察知して輝いている。俺はギムレットクロスを続ける。そしていつのまにかギムレットは水のようになる。水になる酒ほどうまいものはない。遠いとこまで来てしもた。もう俺は帰りたいが自分の口からさあ次へ行こうと言っている。そして腹がペコペコである。限界がきているが涼しげにしていなければならない。きつい旅だ。
宵の口からリーチバーで始まった夜は、始まった瞬間しか残らない夜になる。必ずそうなる。そして間違いなく電車で帰れない。
ジンとライムをシェイクするとギムレットという名になるのであれば、ダークラムを水で割って間延びさせた酒に俺はプールサイドという名を付けた。そのわけを書く前にスペースがなくなった。俺はお前に弱いんだ、ただそれだけ。

俺も出前とりたいわ。

今日のA級順位戦の夕食休憩の出前状況。俺も出前とりたなってきたわ、ほんま。

佐藤康光九段ー広瀬八段戦
18時10分、ここで佐藤天彦が46分使って夕食休憩に入った。消費時間は☗広瀬2時間50分、☖佐藤3時間59分(持ち時間は各6時間)。広瀬の夕食注文は、うな重・梅と赤だし(ふじもと)。佐藤は注文なし。対局は19時に再開する。

渡辺竜王ー屋敷九段戦
18時10分、この局面で屋敷が32分使って夕食休憩に入った。ここまでの消費時間は☗渡辺2時間42分、☖屋敷4時間6分。夕食の注文は、渡辺がみろく庵の力うどん。屋敷は注文なしだった。対局は19時に再開される。

佐藤天彦ハ段ー久保九段戦
時刻は17時40分を回った。佐藤天彦が1時間以上考えている。17時45分、室田伊緒女流二段が姿を見せた。
この局面で佐藤が1時間34分考えて夕食休憩に入った。ここまでの消費時間は☗佐藤3時間22分、☖久保3時間32分。夕食時の注文は久保が親子丼(温そばセット)、佐藤の注文はなかった。対局は19時から再開される。

森内九段ー深浦九段戦
18時10分、ここで森内が34分使って夕食休憩に入った。消費時間は、☗森内3時間14分、☖深浦3時間37分。夕食の注文は両者ともなし。対局は19時から再開される。

郷田王将ー行方九段戦
18時10分、この局面で郷田が55分使って夕食休憩に入った。ここまでの消費時間は☗郷田3時間4分、☖行方3時間53分。夕食の注文は、郷田が「とり丼(並)、赤だし・ふじもと」。行方の注文はなし。対局は19時に再開される。
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それにしても炭水化物よ。
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俺はいちびったイモの外国人だった。

 ここ数年で京都も外国の旅行者が滅茶苦茶増えた。大阪でも東京でもものすごい勢いで増えているのだと思うけど、京都は街が小さくあらゆるものが密集しているところなので外国の人が多くなると街角の風景が一変する感じがする。特に俺が働いている錦市場は道幅も狭いのでカラの大きい欧米人が団体で歩いていると前も店も見えなくなるし「あれっここはどこ」な感じがする。アジア系の人も山盛り来ているので早口な言葉がそこらじゅうから聞こえてくる。円安でもあるからか何だか外国の人の元気がいいように思うのは俺だけか。
 漬物屋としては外国の人が増える分、日本の人が若干減るのでなかなかきびしい戦いだ。特にうちの店は、錦市場の店頭に杉樽のヌカ樽がズラッと並び、そのヌカ床の上にヌカ漬がたくさん積み上がられているので外国の人は必ず足を止めて写真を撮っている。俺はそれを見て「ヌカ樽はフォトジェニオである」と宣言したこともある。
 でも写真を撮ってしまうのはよくわかる。俺も外国に行けばフランスでもイタリアでもアメリカでもアジアでも韓国でも必ず市場に行って珍しい食材や店を見つけると思わず写真を撮ってしまっていた。日本人が食さない動物や虫や見慣れない魚などの食材を指さしたり驚いている表情をしたりして写真を撮ったこともあった。
 ヌカ床の匂いがガンガンしていて、杉樽の上に色がくすみしなしなになった古漬が積まれている店の前で「オー!ノー」な表情や「ワーオ」みたいなノリの写真を撮ってばかりいる外国人旅行者。一緒に来ている仲間と騒ぎながら店の前で悪ノリするアジア系の旅行者。食の市場に合わないやたら小綺麗なルックスをしてモードな革靴を履いている若いアジアなカップル。少し覚えてきた日本語であれは何これは何と質問攻めするすばしっこい旅行者。そのどれもなんだか見覚えがあった。
 それは俺だった。若い頃の俺はたぶん外国で「なんやあいつ」とずっと思われてきたと思う。バンコクに行った時はツクツクの運転手に無理を言って三時間ほど運転をさせてもらってお客も乗せたし、パタヤではキックボクシングのリングにも上がらせてもらった。
 このミーツが創刊する前の雑誌では、ニューヨークに行って他の雑誌に紹介されたことのないチョット危ないナイトクラブを4ページか6ページで紹介せよというミッションを受けた。現地の様々なタイプの遊び人達と合流して壮絶なクラブばかり取材した。ドラッグクイーンが始まった頃だ。信じられないほど恐くてカッコイイ店もあったしゲイかレズオンリーの店もあったし午前五時からオープンするクラブもあった。たぶん俺は何も知らないチビの外国人だったと思う。
 天安門事件があった頃の上海に取材で行った時は映画「ラストエンペラー」のロケでも使われた迎賓館のようなホテルに泊まらされたのだが翌日の朝なぜかわからないがその迎賓館の中庭で水道工事をしていた職人らに混ざってスコップとパイプレンチを持って工事を手伝っていた。
 ローマでは明治屋の紙袋をバッグがわりにして街をうろつき二日目に見つけたバーを駅にして六日間で十回は行った。ルーチンにするのはイチローと俺は似ていてソウルに行くと毎朝、鶏1羽鍋をひとりで1羽以上食べるし銭湯も決まった時間に行く。
 ということで俺はまさにいちびっていた外国人だった。いや、いちびったイモの外国人だったと思う。今思えばとても恥ずかしいが、今は若い頃より行動が地味になっただけでやっていることはあまり変わっていないかもしれない。
 先月号では、俺はパクリにパクって生きてきたと書き、今月号ではいちびったイモの外国人だったと吐いた。本当はもう少し格好いいことを書きたい。あー、というしかない。キスして帰りたい。

スナックで歌を。

見知らぬ人の歌を聞いている俺は、
遠いところまで来てしまったのか。

 雑居ビルの中の薄暗い小さい店で何のご縁もない方の歌を聞いている自分がいて、目に前のグラスの酒に頓着することもなく歌の歌詞だけを追い続けている俺がいる。
 酒も歌もあまりすすめることもないママがたまにカウンターの前にやってきて溶けかけた氷だけが残っている俺のグラスを持ち、スローな仕草で水割りを作りながら「なにか歌う?」とたまに聞いてくる。それはスナックならではの、ためらう素敵な瞬間だと思う。
 歌うけれど今歌う感じではないので歌わない。今すぐ歌いたくないけど間があくならすぐ歌う。ママが好きそうな歌で俺が歌えるものはなんだろうと思ったり一緒に来ている顔ぶれを見て歌のフレーズを思い出したりする、スナックな世界がある。

歌はそのスナックの時空を
震わせて濡れさせる。

歌は泣きたいことをチョットほろ苦い洒落にしてくれたり、今日はこのままこわれてもいいのよと歌詞がメロディーが囁いてくれたりする。
 そして、惚れるという言葉も西風が笑うということも、もうひとりの俺がいることも守れない約束がカレンダーを汚すことも、フレーズになって今も俺に刺さっているし、その素敵さもスナックでの歌が教えてくれたしシビレさせてくれた。

琴線が露出しているので、
よくこわれてしまうのだ。

 スナックはその人ならではの琴線が露出していることが多いので歌のワンフレーズだけでいとも簡単にこわれてしまう。たとえそれが歌のヘタな見知らぬおっさんが歌っていたとしてもそうなる。
 本当にみんなスナックでボロボロとよくこわれる。
 うちの親父は大橋節夫の【ズボンの折り目】という歌で泣く。「ふたりで見つけたカトレアの鉢植えは 今でも枯れずに咲いているかしら」と誰かが歌っているのをハモりながら目を閉じてグラスを持って泣いていた。俺は何度か見た。
 俺は黒木憲の【別れても】を歌って自分で泣きそうになる。「二度とこうして逢えないだろうが 今ならいえるさこの気持 あの時俺が大人なら別れはしない離さない」と歌いながら水割りのグラスの上げ下げストロークが倍速になる。遺伝子には勝てない。
 十年ほど前、当時いつもなぜか黒いパンストをはいてスナックでハイボールを飲んでいた32歳の大阪の広告代理店の女性は、【大阪しぐれ】の2番の「ひとつやふたつじゃないの ふる傷は 噂並木の堂島 堂島すずめ」の部分を誇らしげに歌い、俺はその続きの「こんな私でいいならあげる 抱いてください~」に、期待しながらもいつも思わず目をそむけてしまっていた。

歌をうまく歌いたいのではなく、
その酒場で歌をなぞりたいのだ。

 いつも【ふるさとの話をしよう】を歌っていた岸和田の編集者は最近なぜか丸山圭子の【どうぞこのまま】を椅子を叩いて歌いながら恍惚状態になるし、木屋町ボトルキーパーズというバンドを率いるエディー・片山はスナックに行けば必ず星野哲郎作詞の【兄弟船】の「型は古いがシケにはつよい」というフレーズを腹の底からいつも響かせて歌っている。
 ドロ目の街の先輩は「みんなあんたがおしえてくれた 酒もタバコも うそまでも」と重くなったまぶたをさらにドロリとさせながら指先を睨むようにいつも歌う。
 歌はうまく歌えないほうがいい。十代の頃からずっとスナックやラウンジやらに通い、たくさん飲んで歌ってきてそう思う。歌がうまいのは罪だとも思う。
スナックの世界は、強弱や高低や大小などない生態系なのだ。
 うまい酒や素敵な出会い、歌が上手に聞こえる抜群の音響設備やヒーローになりたいことや満足度100%の世界など、求めたいものがハッキリとしているならスナックに行かない方がいいと思う。
 街のスナックというのはお客が求めるものが最優先されるところではなく、そのお客さんも含めたその日その瞬間の店そのものを愉しむところなのだ。
 しかも街の酒場に行けば自分に都合のいいことばかり起きない。ママに話しかけると睨むおっさんがいたり、場が無茶苦茶になるようなアップビートの曲を何曲も若者が歌ったり、歌いたい歌がほかのお客に先に歌われたり、隣で飲んでいた中年の人から昔話をエンドレス聞かされたり、あると思っていたボトルが仲間の誰かに飲まれてほとんどカラだったり、ママに怒られたりするのがスナックだ。
そこで起こることすべてを肯定することから街のゴキゲンが始まる。
 思い通りにしたければ自分たちだけしかいない限られた空間で遊べばいいし飲めばいい。けれども無菌状態の中で時を過ごしても熟していかないし発酵しておいしいものに変化することはない。たとえあったとしても予測された変化であったり、計算できる満足しかない。
 街と人と歌と酒が絡み合って何かが熟成される酒場、それこそがスナックなのだと思う。日本ならではの素晴らしい文化だと思う。

さあ行こうぜ、時代と逆行する、 スナックの世界へ。

 編集者からスナックの特集をやろうと思っていますと聞いた時に、な 
んで今頃スナックなんだろうと正直思った。街の特集の中のイロモノ的な感じで 
2、3ページ紹介するならわかるが丸ごとの特集ってどうなんだろうと考えた。 
しかもこのメンズ・ハナコという名前のこの雑誌で。
 けれども目を回しながら輝く青年編集者と何回も飲んで付き合っているので、 
彼が作る彼の世代のスナック特集の出来上がりを見たいなと反射的に思った。素 
敵なスナックの世界が時代と遠くなりすぎたから諦めていたら、彼が俺のグラス 
の前に赤と黒のベタなスナックのマッチをおもむろに置いて「さあ行きましょう 
よ」と宣言した感じだ。

そこが磯辺の潮だまりなら、
あえて俺はそこに行きたい。

 俺も十年くらい前までは「カラオケボックスではなくスナックに行く方がゴキ 
ゲンだ」と、いたるところで地団駄のタップを踏みながら泣きながら書いていた 
けれど、時代はどんどん「無菌状態歓迎指向」あるいは「予定通り小満足指向」 
が進み、スナック的なものはまさに磯辺の潮だまりに追いやられていった。本当 
は潮だまりこそ生態系の宝庫なのでとても誇らしいことなんだけど。

スナックを昭和的というだけで、
すませてはいけないと思う。

 50年以上前の「洋酒天国」という冊子(寿屋の洋酒チェーン加盟のサント 
リーバー・トリスバーへの来店促進のための無料配布誌。編集発行人が開高健で 
毎号特集やデザインに新しい試みがあり、随所に柳原良平のイラストがある 
ウィットのきいた冊子。当時、山口瞳も編集部にいた)に「スナック」という単 
語が出てきていたので1950年代からあったと思うが、今ここでいう街のス 
ナックは、70年代初めにカラオケとともにパアーッと増えた比較的小さな店で 
そこに歌と洋酒がある酒場。カテゴライズなどする必要はないが、歌と洋酒とマ 
マがいる小さな酒場でいいと思う。
 俺がハタチぐらいの頃はひとつのビルが50軒くらいのスナックでビッシリと 
埋まっていることも珍しくなかったし、そんなビルが京都でもたくさんあった。 
あの頃なぜあんなにスナックがあったのだろう。今思うと不思議で仕方がない。66
 その当時も今も思っているけれどスナックに行けば、その雰囲気に従わねばな 
らない。
 決まったルールではなく雰囲気に従うことこそスナックの醍醐味のひとつなの 
だ。

「おっ、永ちゃんや」とつぶやけるシアワセ。

 こないだ大西ユカリがパーソナリティーをしているFMの番組の中で矢沢永吉のインタビューをしていた。普段はFMではなくAMを聞くことが多いがあらかじめそれを知っていたのでスピーカーに向かって正座するかのようにジッと聞いた。
 大西ユカリはもちろん永ちゃんがずっと好きだったと思うしその憧れの永ちゃんを前にして彼女がどんな仕事をするのか興味深かった。
 インタビューが始まった、今日のゲストは矢沢永吉さんですと大西ユカリがうれしそうに紹介すると2秒間があって「こんにちは矢沢永吉です」とまさに永ちゃんの声がして俺もうれしくなった。そして彼女緊張してちゃんとしゃべれるんかいなと思いながら聞いていると、いつもの大西ユカリ節の調子で永ちゃんにインタビューしていて思わずさすがやなあと唸った。時々、永ちゃんに突っ込みを入れたりチョットボール気味の球を投げたりして聞いていて何度もひやひやしたり苦笑いをした。それでもさすがに永ちゃんはラジオの向こうでもメチャクチャ格好よかったし、新しく録音し直したという「セクシーキャット」にもしびれた。
 俺達の世代にとって矢沢永吉は特別な存在だと思う。まわりを見渡せば同じ世代の奴でも矢沢永吉とは関係ない奴もたくさんいるし、俺でも様々な音楽やカッコよさと出会い矢沢永吉を忘れていた時もあったし新しいアルバムにもライブにも興味がなかった時もあった。それでも矢沢永吉はいつも特別な存在だった。
 例えば永ちゃんがテレビのコマーシャルに出ていたら必ず「おっ、永ちゃんや」と声に出す出さないかかわらずつぶやいてしまう。そのコマーシャルがどうあれジッと見てしまう。車に乗っていて永ちゃんの歌が聞こえてきても思わず「おっ、永ちゃんや」とつぶやいてしまう。いくら好きでもジョンレノンや宇崎竜童やボブマーリーではそうならない。
 昔ヤンキーやったとかリーゼントしていた系とかでもないと思う。基本的に俺はいわゆるヤンキーではなかったしリーゼントをしていた時もあったがそれはキャロル系のリーゼントでもアメグラ的とかグリース的なリーゼントでもなく傷だらけの天使に憧れて長い目の毛をポマードでベトベトにしていただけのものだった。
 70年代後半から80年代前半は新しい音楽やムーブメントが流行ったり入ってきたりしていてディスコやらソウルやらR&Bやらウェストコーストやらで忙しかったし、荒井由美やサザンやカーコンポ的なフュージョンやレゲエ、夜はタテのりのスカやニューウェイブが先行したりもしていた時でも、永ちゃんのアルバムが新しく出れば必ずその発売日に買っていた。そして急いで家に帰ってステレオで聞いたし歌詞を読んだ。
 また世代が違えど永ちゃん好きは多い。裏寺の百練で矢沢永吉祭をすると三十代四十代の真っ当な男が多く来るし、大西ユカリも俺よりずっと若い。このコラムに出てくる戦後人生という男も木屋町のハゲ軍曹も悲しきサラリーマンもラッキーという男もそれぞれ世代は違うがみんな永ちゃんとともに生きている、そんな気がする。
 去年も永ちゃんのコンサートに行くことが出来た。一緒に行った仲間と帰りに会場の近くで飲めばほぼお客さんの全員が永ちゃんの話をしていた。若い奴もいたしシワが深い男や女もいた。
 矢沢永吉のことを永ちゃんと呼んでしまう俺はシアワセだと思う。「きつい旅だぜ、おまえにわかるかい」と、永ちゃんは必ずこの曲をライブで歌っている。