正味の話、今まで出来ていたことが微妙にずれていたり、あれっと思うようなことが最近多くなってきているからだ。グラスを倒すまではいかないがバーで飲んでいる時に手の肘がグラスに当たりそうになってしまいヒヤッとすることがあるし、割烹や居酒屋のカウンターで褒められるほどスマートに一粒ずつ箸でつまめていたイクラが最近チョットおかしい。完璧にほじくれていたコッペもチョット面倒くさい。使い慣れた道具も指にどうも馴染まないときがある。記憶や計算などはいうまでもなく劣化している。
それを埋めるためにどうしても必要になってくるのがスパイ度なのである。スパイ度というのは、映画や小説で誰もが知っている、主役のスパイ的な濃度がいかに高いかということを指している。
ショーン・コネリーやダニエル・グレイグのジェームス・ボンド、マット・デイモンのボーンシリーズやスパイではないがゴルゴ13などというところか。
俺がよく考査しているのはそのスパイ達が、このバーにこの時刻に入った場合、カウンターのどの席に座りどのタイミングで何の酒をいかに空気を乱さずにオーダーするかや、水割りかロックかどっちを頼む方がこのバーは得なのか。またそのスパイが、喧噪と煙にまみれたこの見知らぬ街の居酒屋で熱燗を飲もうとする場合、店の状況や注文状況をいかに察知し何を注文すれば最も早くアテが出てくるのか、注文したものが出るのが遅い場合いかにさりげなく男前にイヤミを少し含めながら伝えることが出来るかどうか、勘定の仕方はいかにスパイ的に行うかなどを俺は後輩達に指導しているのだ。
そうすることで俺がいかにスパイ度が高いかということを口がパクパクになるほど表現しまくり、どんなことでも可能にするスパイ像のような俺のアバターを作ることで劣化した自分を水あるいは酒で溶かしているのだろう。
少し前に、岸和田の男とホステス編集者が忙しい時期の京都に来たので昔から行ってる店でチョット飲みながら打合せをしていた時に俺が「ここのあれはもひとつうまないしのー」と言うと、岸和田の男が「そのうまないところがこの店のええところやないかい、うまかったらあかんのや」と言ったので、やっぱりこいつはよーわかってるやっちゃなと俺は本当に感動した。そしてこれはこの先どうなるかわからんし忘れたらあかんと箸紙にそのフレーズをメモしていたら、ホステス編集者が「あー、ついに現場を見てもうたわ」と嘆くような喜ぶような唇をしていた。そして劣化を隠すためにスパイ度を高い目に設定している俺とよーわかってる岸和田の男の写真を撮った。そしてその写真に写っていた二人の男は痛々しかった。あー、というしかない。