俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

バッカスの福音書。


 十代の頃に雑誌か作家のコラムか何かで「酒は人間関係の潤滑油だ」と書いてあったがそれから約四十年飲み続けて思うのは、そんな風な使い方をすると酒が怒るということだ。酒は道具ではない、酒は人と街に流れる愛のさざ波。様々なものに同期する生命の水だと思う。
 以前俺は、酒場ライター養成講座というものを開催していた。その講座のレジュメというかテキストブックにバッカスという架空の福音書を作って、酒とその周辺に起こるシアワセについて伝えていた。
バッカス福音書その2の5の3章”にこうある。
 “毎日毎日乾杯をしなさい。それを一年十年三十年五十年続けなさい。乾杯のグラスがカラになってもおちょこになっても湯飲みになってもそれを続けなさい。それが出来た人生は不成功であってもゴキゲンに満ちている”
 これは、付き合っていればいろんなことがあって、相手を傷つけたり失敗して怒らせたりすることもあるけれど、それはそれとして、毎日乾杯を続けることが出来れば必然的にシアワセの勝利投手になることを指している。
 また“バッカス福音書その4の1の2章”では、
“そこにある条件で飲みなさい。そこにないアテを欲しがってはならない。予期せぬことが起こったときはそのグラスを手にとりなさい。グラスがあったところを見ると、そのカウンターにはグラスを上げ下げした数と同じだけの輪っかがあるはず。グラスを上げたあとのいくつもの輪が喜んでいる。あなたそのものがその店に含まれているのである。そこにある条件を祝福なさい”
 これは「酒飲めば おちょこの下に 輪ができた」という名句にも通じる、何も説明する必要のない福音書だ。名句といえば「ポン酢とネギでドリブル人生」や「蓼食う虫も好きずき 蓼酢飲む客俺ひとり」というのもあった。
 理解しにくい福音書もある。
バッカス福音書その3の4の2章”
「街で飲むことはアジャストあるいは迷いとの道中である。それを否定も肯定もせずに現れるものと肩を寄せて付き合ってしまいなさい」
 世間や人と適当にアジャストしてやっていくのは簡単なようでとても難しい。また、変化しないと生き残れないのかも知れないが変化は不安なものである。だからせめてバーや居酒屋だけは昔のままで変わらないで欲しいと願う酒飲みのわがままを説いたものか。やっぱり、酒は道具ではないと思う。
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