俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

今年はロックでいこう。

パリーグの男と行きがかりじょう旅団。

 このコラムには随分といろんな奴が独特の名でこのコラムに登場してきた。
 岸和田の泣きの編集者、ワイン10本男、キレた服屋の親父、左門豊作の弟、泣き坊主な街の先輩、木屋町ヨーダ木屋町のハゲ軍曹、木屋町の苦労人、近所の広告代理店の男、悲しきサラリーマン、戦後人生、泣きのドイツ人、酒ピエロ、ミスターグラフィック、226の男、岸和田の角行の酒屋、ホステスな美人編集者、天王寺の野球小僧、アフガニスタンでピンクローターを売る男。
 草刈マメ夫、くわえさなぎのミドリ、豆さらしの加代子、デニーロの顔になるママ、マキさんの紹介での女、片栗粉の女、阿倍野の屈託男、ナメクジナンパ野郎、モアイ、木屋町待田京介、初代・酒でパー、着物を着ている祇園の黒人ママ、ケルト井上、伏見のおっちゃん、モカマタリ。
 ドロ目の街の先輩、石屋のトーテムポール、八百屋のトム、ポエムな貿易商、火曜サスペンスの女、黒豆、黒豹ライター、ウルテベイビー、ひとり暮らしの子犬、ラブアタックな女、京極小町、深夜のコンバット、ミスター身上潰し、木屋町ゼロ戦木屋町のミスマイアミ、団体では「アゴ族しゃくれ協同組合」や「行きがかりじょう旅団」などそうそうたる名前の人達が登場してきた。
 まだまだあるがこうして名を連ねるだけで原稿量の三分の一に達してしまったのでもうやめるが、コラムに登場してきた人の中で最多登場というか最も酒場社会に影響を与えたのがパリーグの男である。
 俺がこのパリーグの男と初めて会ったのはハタチ過ぎの頃だった。その頃の彼は四条木屋町にあった「ディスコ・ゼノン」でDJをしていた。
 その店はちょっとイモくさい系のディスコでDJが曲と曲のあいだに次の曲はどうのこうのとしゃべる系の店だった。それでも当時の最先端のスカとかニューウェイブ系のタテのりの曲がよくかかっていた。
 その頃から彼はもうエディーという名で呼ばれていた。
 余談になるが全部余談だが、当時、ジミークラブのジミー、トミーやボビー、DJのジョニー、カメラマンのハリー、アップスクラブのテリーとドリーの双子、レイチェルやキャサリンも街にいた。俺はその当時まだバッキーではなく誰からも「ひでお」と呼ばれていた。
 エディーは当時、木屋町のディスコ系不良軍団とよく道中していたので俺とはちょっと生きる世界が違うと思っていたけれども、行く店行く店でよく会った。それでもちょっと話すだけで距離をとっていたが、「クックアフープ」という店が出来てからより頻繁に顔を合わすようになり、ある日隣同士で飲んでいてプロ野球の話になった。
 彼は異常に詳しかった。しかも昔のパリーグのことになると唾を飛ばしまくって熱く語ってくるので、明くる日に早い時間から裏寺の「たつみ」で会ってもう一度きちんとその辺の話をしようじゃないかということになって俺達の幕が上がったのだった。
 プロ野球の話、パリーグの話、映画の話、音楽の話、湯村輝彦の話、酒場の話、小説の話、街の先輩の話などいくら時間と酒場があっても足りないくらいだった。
 そして2002年、彼はとうとう街の酒場をウロウロしている奴らばかりで創設した野球チームの監督に就任した。その名も「エディーズ」。そのユニフォームを持っている奴はなんと60人を超える。納会や新年会や決起大会など試合よりも宴会が圧倒的に多い球団である。ちなみに俺の登録名は「井上・兄」である。実に洒落た球団だと思う。