俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

勘定で悩むことは正しい。


勘定で悩むことは正しい。

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 錦市場京漬物専門店を営んでいることもあって商品の価格と毎日必死で向き合っているが、奥が深すぎて途中で考えることをやめたりしてしまうのが現実だ。
 例えば野菜の持ち味を活かして素朴に漬け込む壬生菜の浅漬などの価格は設定しやすいけれど、胡瓜の古漬や白菜の古漬の価格を設定する時に古漬でないまだ青々としてシャキッとしている胡瓜のヌカ漬の横に置くと、色はくすみ同じ胡瓜なのに痩せて小さくなりふにゃふにゃになっている古漬が浅い目のヌカ漬よりもどうしても安そうに見えてしまう。俺はくやしい。
 白菜の古漬にいたっては、白菜の浅漬と比較すると約三倍から四倍の工程を経て大変手間をかけて漬け上げているのでとても同じ値段にしたくはないけれど、仕上がった時の大きさが半分ほどになってしまうので浅漬よりも高い値段に出来ないでいる。稲盛さんの値決めは経営を勉強し直さないといけない。ただそれにコストはかかっていたとしても古漬はお手軽な価格であるべきだと考えてもいる。俺はいつも古漬とともにいるのだ。そして「浅漬は折れるが、古漬は曲がる」のである。現代は古漬的なことを欲していると思う。古漬万歳だ。
 料理屋や酒場ではその価格にいつも一喜一憂している。極端にいえば店で勘定が気にならなくなったら外で酒やごはんを食べに行ってもなんだか気の抜けたビールを飲んでいるような感じがすると思う。
 メニューに金額が表示されている店であっても表示されていない店であっても、勘定の前にだいたい金額を想定しているものだ。いくらのものを食べて酒を何杯飲んだからいくらになるはずだということよりその時に優先させるのは勘だ。その勘よりも実際の勘定が高かったら真剣に悩んでしまうし、安ければ勘定を済ませて店を出てから道中している連れや相方に安かったことをうれしそうに伝えている俺がいる。
 思ったよりも高ければ店から「もう来なくていいですよ」と囁かれたような気がするし、安ければ「また待っているからね」と微笑まれたような気がするのだ。そこにお店側もお客側もなんの意地悪もない。ただそういうものなのだと思う。
 これを若者達に説明しようとして上手くできない時に俺は最近、「なんでですか?」「なんでもや」という伝家の宝刀を使うことにしている。あかんかなあ。