俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

笑うことが、面白くない。


笑うことが、面白くない。

 最近、笑うことが面白くない。どうなっているんだろう。
 以前は(今でもだが)ザ・ぼんちのおさむちゃんが出てくるだけでなんだか腹の底からおもしろくておかしくて、笑い過ぎてほんまにアゴがはずれそうになるので笑いを堪えるのに必死だった。ザ・ぼんちのおさむちゃんに限らず十年ほど前まではそれほど面白いことはあった。今も面白いことはあるけれど、笑うことが面白くないのだ。なんなんだろう。
 仲間が集まって飲んだり話をしたりしていると、ときどきメチャクチャ面白い時はあるけれどなんだか以前のように笑えなくなった。笑うことがもっさいような気がするからか。笑っている姿が醜いような気がするからだろうか。なんだか俺は笑うことを最近ためらっている。
 野球以外はあまり見ることもないがテレビの中の人はいつも笑っている。その人達を見ているとどうも笑い方がおかしいように思えて仕方がない。笑うというよりも、笑っていることを他の人にアピールするためにわざわざ大きな声で笑っているように見える。居酒屋などでもそんな笑いが多いような気がする。自分が笑っていることを強調するために過剰に笑う人が多い。
 笑いたくないから面白いのに、笑うことを優先するのであの人達は面白くないのではと、俺は心配しているのだ。それよりもお前の頭のことを心配せえよと言われそうなので、ここは一発、笑うこととは何かという討論会をやろうじゃないか。笑えるようなことで笑うはずないのだ。俺も焼きが回ってきたか。
 こんなとき、いつもこの歌が俺の頭の中を駆け巡る。
“もう随分長いあいだ見ることもないが 遠い日のぼくの春にはつばめがとぶ”
 岡林信康の「つばめ」という歌だ。漫画でいえば主人公が何かで「ガーン!」となったあとの空白の時に俺の場合はこの歌がくるくる流れているのだ。しかも“遠い日のぼくの春には”のところを“遠い日のぼくの街には”と、今日までずっと間違えて憶えていた。
 レコードがすり切れるほど聴いた歌は他にたくさんあるのに、なぜそんなにも聴いてもいないこの歌がもっとも重要な場面で出てくるのはなぜなんだろう。
 ミスター・ロバートの分析によれば「それはおそらく“もう随分長いあいだ”と“遠い日の”というフレーズが君のどこかに刺さっていて、その場その瞬間を遠い日のものにしたい時にこの歌が出てくるのではないかな」ということだが、俺はそれだけではないと思っている。この歌のメロディーと岡林信康のあの声が、この歌を初めて聴いた時の、中学生だった頃の俺の部屋に連れて行くからだ。
 そして歌の後半部分の“つばめも来なくなったこの町で 何も変わってないように春を迎えたんだ”というフレーズで俺はいつも回復するのだと思う。
 歌に因果はないけれど、また因果にしてしまうのだ。歌に記憶や思いや過ぎた日などの様々なことを勝手に歌と絡めてのたうちまわっているのは俺達なのである。
 “あー、歌よ、歌さんよ、あなたに罪はないけれど、今日もまたあなたを原因にする俺を許してください。あー、歌よ、歌さんよ”
 俺もいよいよ遠いとこまできてしもた。あー。
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