俺は4時15分。

バッキー・イノウエとワイワイナワイモ。

街の店とメシに同期する男。


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実は昼メシも晩メシも俺は必死で考えている。それはその日の昼メシも晩メシも食べてしもたらその枠というかシアワセな時間がなくなってしまい、二度というか次に腹が減るまで取り返しがつかないということを、子どもの頃や十代の頃からそこらじゅうの店で思いきりすり込まれてきたからだ。街にはうまいもんが昔から山盛りあった。
 10歳くらいまでは京都大丸の錦小路側辺りに家があった。その頃のことはあまり憶えていないが、それから七条の本町に引越しをしてからのことはよく憶えている。ごく普通の下町だったがゴキゲンな街だった。
 子どもの頃はひとりでは行けなかったが隣の町内も含めると近くにうどん屋が3軒あった、大人向けのお好み焼き屋が2軒、子どもだけでも行ける公設市場内のお好み焼き屋も2軒あった。
 その街にはお好み焼き屋にたこ焼き屋、たい焼き屋に冷やし飴屋など子どもでも食べに行けるうまいもんが密集していた。まさに本町だ。
 けれどもなぜかはわからないが俺は子どもの頃から同世代よりも、少し上の奴らがいるような店へ行くことに必死になっていた。しんどい思いをすることが多いのになぜだったんだろう。俺は今、56歳だけどその時とやっていることは何も変わらない。今も年上の人がいる店が好きだし三度のメシというか行く店にチョットだけこだわっている。
 こだわりという気色悪い単語を蹴散らすために俺が行ってる回数の多い店のベスト5を発表しよう。
 1位は御幸町綾小路のうどん屋「やまのや」。たぶん年に150回は行く。1日に2回行くこともある。スポーツ新聞、週刊や隔週系のマンガ雑誌、テレビがあることに加え、注文して料理が出てくるまでがめちゃくちゃ早い。焼飯と肉カレーの黄ソバをよくたのむ。
 2位は週3回は行く裏寺の「百練」。これは仕方ない。
 3位は四条河原町西の立ち食いうどんの「都そば」、俺はここで何がスタミナかわからないが天ぷらと生玉子の入ったスタミナうどんを1日2回食う時もある。
 4位は新京極六角の「龍鳳」。ご主人ひとりでやってはる中華料理屋でカラシそばが名物だけど、俺は「かしわ玉子焼」とメシを食べてからもやしスープかチャンポンをいただく。さらに週刊誌も鬼平犯科帳もある。
 5位は塩小路高倉の本家「第一旭」。うまいうますぎる。俺が行き始めた頃は閉店時間が朝4時で開店が5時からだった。それが20数年前に閉店時間が2時になったとき、俺は途方に暮れた。夜中の2時3時にどうしたらええんやと街の暗闇に向かって吠えた。
 五条の「ラーメン藤」も入賞争いをしている。ここも近藤製麺系であの伝統の藤の味だ。週刊大衆やスポーツ新聞やニヌキがあることもピクピクさせる。近くにある葬儀会館に行ったあと喪服でもよく行っている。
 その店に行く頻度の話をするような俺ではなかった。頻度ではなくいい店の話だった。ではいい店とはなんだろう。
 俺の場合はうまい安いではなくココロにクサビがビシッと刺さっている店だ。このクサビこそ生きてきた証しだし街で生きてきた俺の宝物だ。だからいつまでも忘れないし遠くなって行くことが面倒になっても代がかわって店や味や愛想が多少変わっても、こちらが鈍感になればいいだけなのだ。店は評価するものではない、こちらが店に合わす方がシアワセだと思う。
 千本は五番町近くの焼肉屋「江畑」には夕方に街の先輩から呼び出されることが実に多い。店に行けば江畑のご主人がいる、おかみさんがいる、先輩がいる、味のいい息子がいる。ハッキリ言って俺は江畑で大量に肉を食ったことがない。それよりドボ漬と酒と大根おろしで食うチョットの肉だ。
 地元の人からの愛され度が非常に高い河原町の「鯛寿司」では鯛と蛸とねぎま汁でエンドレスラブだ。ここはシアワセの何もかもが揃ってる。年少の身内を連れて行きたくなる店は本物だと思う。
 鯛の次は蛸。新京極の「蛸八」は大阪や神戸や東京の店や料理にうるさい奴らを連れて行くと、ひと品出て口にした瞬間にすぐ黙ってニコニコしだす店。それに加えてご主人もおかみさんも料理以上に人を惹きつける。
 祇園の「グリル大仲」は、二十代の頃に牡蠣むきと洗いもんのバイトをさせてもらっていた時と、マスターともその息子(当時は5歳くらいだったが今は30代半ばか)とも距離感があの頃と全く同じだ。あの頃、洗い物をしながらいちばん食べたかった料理「森のキノコ煮」を今も遠慮しながら注文してしまう。知ってることや経験したことを捨ててその頃いわゆる初めの頃と同じように飲める店は大切だ。大切と書いてすますことにも抵抗があるほどだ。
 高校生の時のデートスポットだった裏寺のサラダの店「サンチョ」とはいつの間にかお隣さんになってしまったがたまにお昼にクリームコロッケを食べに行くし、寺町京極の「キムラ」で昼にすき焼きを食べに行くし、先斗町ならフライもんが苦手な俺が最近ラッシュで攻めている「串いち」という現在最高に魅力的な店もある。ちなみにこの店のキャッチフレーズは「あしたのために」で、しかもマスターは俺に「パンチドランカー野郎」と呼ばれている。いったい、俺は何を書こうとして誰に何を伝えようとしているのだろう。
 ちなみにこの原稿を書いている本日は、朝は家で塩昆布と卵と漬物でごはんをいただき、昼前は「やまのや」で肉カレーの黄ソバと小ライス、夕方は新京極の「スタンド」でカス汁、夜は百練でチマチマしたものをいろいろ頼んで塩気と旨味を思いきりとっている。
 そしてこの原稿に結論が必要なのか。そうか、ではこうしよう。
 俺は街の店と同期することで随分助かった。嫌いだと思える店がほとんどない。
街は上手に出来ている。一昼夜で街は出来上がらない。その街が産む店やメシももちろんそうだ。

町内という世界、銭湯という土俵。戸川万吉か。

町内という世界、銭湯という土俵。戸川万吉か。

「俺がこの街に住みついたのは、あれはほんのガキの頃だったぜ」という歌いだしの歌があった。三十年以上前か。ダウンタウンブギウギバント、宇崎竜童の歌い方や声にしびれたな、あの頃。
 子供の頃、街は大きかった。町内だけでも世界があった。町内の中だけでもいろんな人がいたしいろんな不思議もあった。そしてわずか五十メートル向こうが隣の町、さらに見たこともないようないろんな人がいて何をしているのかよくわからないことがわずか隣の町内なのに山盛りあった。大通りの向かいは隣の小学校、もう全然違う世界だった。隣の小学校の奴がたまに俺のホームグランドの銭湯なんかに来たら英語でも話しよるんちゃうかと思うくらいだった。それほど子供の頃は町内が学区が世界だった。なんなんだろあの感覚。
 今の子供達にとっても街は大きいのか、町内という世界はあるのだろうか。本宮ひろしが描いた「男一匹ガキ大将」で綱村が現れ、土佐源が現れ、俺の好きな広島の山崎が現れるところに怖さ凄さを感じるのだろうか。
 エアコンの普及で窓や玄関がしまり町内にも人が出歩かなくなった今、携帯を握りしめて目的地以外に目をやらなくなった人が行き交う街は低血圧になっている。人にかまわないかまわれないなら目をギラギラさせて近くにきた奴の戦闘値をスカウターで分析する必要もない。今の街は様々な野獣が行き交うジャングルではなく相手が見えない深海なのか。ほんまにこわいな。
 俺は小学校の頃、最寄りの駅が七条京阪という(出たな京阪)の東山区の本町に住んでいた。京都はどこの街でもそうだが俺が住んでいた本町も職人さんが多かったように思う。手や指が固そうな大人がとても多かった。特に本町通は銭湯も多かった。三つの町内に一軒ぐらい銭湯があった。正面湯、つる湯、大黒湯。銭湯はいつも満員だった。会うのがイヤな先輩やコワイおっさんもいたけど風呂を銭湯を避けることはできなかった。しかも銭湯では裸、まる裸でイヤな先輩やコワイおっさんと向き合わなあかんかった。きついでしかし。今から思えば街の銭湯は過酷な場所だった。
 そんな街の過酷な銭湯で垢を落としてきた俺がこうして垢みたいな日々を愛しく思うのは多分必然なんだろう。

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ビアホールの中のひとり者。

ビアホールの中のひとり者。

 今、銀座のライオンビアホールにいる。日曜日の4時、満席。みんな連れがいる。俺は日曜日なのにスーツを着て一人でいる。しかも東京。実はこういうシチュエーションが昔から好きだった。
 東京に行けばポピュラーな外資系のホテルにありがちの、バンドが入る大きなフロアラウンジに行ってよく一人で飲んだ。
 はじめはシュッとして飲んでいるんだが、バンドがどうでもいいような歌を適当にプロらしく歌っているとだんだん俺はゴキゲンになる。
 見知らぬ人でいっぱいのフロア、酒が入った人達が発するの強烈な喧騒、うまくもまずくもない目の前のウイスキー、片言の日本語で挨拶をしているバンドの女性ボーカル、誰もが知ってるスタンダードナンバーと適当なコーラス、今夜は家に帰らなくていいという条件、バンドの音が酔客の声をさらに大きくして俺はどんどんひとりになっていく。
 ウイスキーは飲めば飲むほどにどんどん水臭くなり、誰かに電話したくなってはそれをしたくない夜が更けてゆく。
 そのうちにバンドが輝いて見える、ウェイターが微笑んでくれているように思う、遠い日に聞いた言葉が脳裏をよぎりまくり、その言葉が他のフレーズを連れてくる。こうなれば止まらない、まるでスーツを着た磯辺の生き物か何者かわからない「止まらないHa~Ha」である。そして通り過ぎるフレーズをキャッチするためコースターの裏に書き留めると、またそこから新たなるフレーズが音楽に乗って、喧騒に乗って、グラスの上げ下げという儀式によってやってくる。「遠いとこまで来てしもた」といつも呟くのはそんな夜だ。
 銀座のライオンビアホールでも今宵同じようなことが起きている。俺は異国からやってきているスパイを演じて飲めばいいのか。スパイは孤独な目をしてはいけない。さびしそうにしてはいけない。
 そのスパイの周りは、飲んで笑う四人掛け、語り込む二人掛け、高齢のご夫婦、同期会風の大きなテーブル、俺は欧米人のカップルと30ぐらいの男二人客に挟まれている。俺は壁際にひとり。ビールをあまり飲まない俺だがビールを飲まないといけないかなと思いビールの小を注文したが、同時にウイスキーも注文した。
 そしていつの間にかこの空間に飛び交うフレーズの収集作業に入った。そのチラシの裏にはこうある。
 “この国の消費者、いや、店をやる奴や店に来る奴、モノを作る奴やモノを買う奴のそれらのすべてのレベルが上がったというか、何でもすぐに調べられたり疑似体験することが出来たりでほぼ全員が中和というか混ざった。技術や知識や街や店を知ってる知らないでお金を得られた時代は終わった。
 だとしたら全部フラットになったのか。これはしんどい。みんな同じことを知っていてまたは容易に知ることが出来て、陰も日向もない世界。俺が子供の頃の学校は先生の指導的には全員フラットということになっていたけれど、みんな同じではなかった。お金持ちの家の子よりもモテるためには速く走るしかなかったし、カラダが大きくケンカの強い奴と同等でいるためにはチキンレースで勝つしかなかったし、ナンパな親父から授かったネタを披露することで優位に立つことも出来た。
 デコボコがあるから隠れも出来るしそれを利用すれば勝機もある。けれどもデコボコのない影すらない砂漠のようなフラットなところで生きるのはきつくなる。使えるのは変移抜刀霞斬りぐらいか。俺はいつになったら白土三平の呪縛から逃れられるのだ。“
 こんなことを書いて飲んでいる夜は、間違いなくスパイ失格である。

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写真は銀座のライオンビアホール。数寄屋橋のサンボアに行こうとしていて日曜日で休みだったので歩いていたら目の前にここがあった。二十年ぶりだった。たっぷり飲んでそろそろ出ようと思った時にライブが始まった。銀座カンカン娘とマッサンの主題歌を歌い始めたのでもう一杯だけ注文した。それにしてものっぺりした時代になった。

大人はつまらない。


 子供の頃は大人になったらなんでも好きなことができると思っていた。近所の駄菓子屋の奥でおばあちゃんが焼いている一枚十五円ほどのお好み焼きに、玉子を三つ入れることもできるし、二枚目を注文することも大人になれば出来ると思っていたし、ラムネやコーラをもう一本飲むことが出来ることに憧れを持っていた。
 中学になって、晩ご飯を食べてテレビをちょっと見てから勉強していると、窓からラーメン屋のラッパいわゆるチャルメラが聞こえてきて、悶えるように食べたいけれどそれはおかあちゃんから許されない。自分の小遣いでも許されないもどかしさ。動く屋台の存在の魅力は、机に向かう者の心を鬼のように乱した。ノートを閉じシャーペンを意味もなくカチャカチャさせて、大人は気が向いたら食べに行っているくせにと地団駄を踏んだ。
 テレビの「ゲバゲバ90分」という番組の制作会社などでアルバイトをしていた同級生の兄貴に「お前そんな好きやったら来てみるか」といわれて、貯めていたお年玉を使ってひとりで新幹線に乗って東京へ行くといっても行かせてもらえなかった。
 その頃、親父は昼の仕事をしたあと祇園木屋町のナイトクラブやビアホールでハワイアンやウェスタンを歌っていたので、通じると思っていた親父に「あのゲバゲバ90分のスタジオなんやで」と必死で言ったが「あかん」の一点張りだった。
 今思えば親父こそが行きたかったのではないかと思う。だって親父も三十代だったはずだ。またはあの世界のことを自分が知っていたので激しく行かさなかったのか。しかしこの時は家出して大阪や神戸をうろついた。東京へ行ってないところが根性なしだ。
 そして、大人になったらなんでもできると思って生きてきた俺はその時に大人のつまらなさを子供ながらに感じた。大人は十五円の薄い薄いお好み焼きに玉子を3つも入れようとしないし、ラーメンはカラダに悪いと言うし、当時のゴキゲンなエッセンスが溢れていた番組を子供の前ではつまらなそうにし見ていた。
 だいたい「 大人」という字がカッコ悪い。「成人」の方が少年にとっては魅力的だった。結局、そんな俺も大人になってから何もできなくなっている。あー、というしかない。

動物は水場に集まるのだ。

f:id:vackey:20150307181253j:plain 俺は三十歳ぐらいからコーヒーを飲まないようにしていた。コーヒーが好きだったけれど酒の方が好きだからコーヒーぐらい我慢しようとした。酒と油と塩とポン酢が生き甲斐で麺類が主食の俺は煙草も不屈に吸いまくっていた。そのうえにコーヒー連呼はあまりにも胃がかわいそうな気がしたのでコーヒーは我慢した。なかなか我慢出来なかったがコーヒーを飲むと、かしこくなるからと、のたうちまわってやめた。それでも街の先輩の事務所なんかに行くときれいなお姉さんや奥さんがおいしいコーヒーを出してくれるのでそれは飲んだ。そうなると街の喫茶店に行く機会が減った。その代わりに街のうどん屋に行く回数が増えた。そこが俺の垢抜けないところなんだろう。
 そうこうしているうちに気がつけば街にスターバックスドトール的な店が増殖して新聞や雑誌やテレビやカレーやナポリタンのある街の喫茶店が急に少なくなった。俺は泣いた。俺は泣いている。
 小学生の頃は指が黄色くなった親父を呼びに近所の喫茶店によく行った。中学の頃はこわい先輩達に喫茶店へ呼び出された。高校の頃はなんだかよくわからないが繁華街の様々な喫茶店に入り浸った。ロックばかりの店やジャズ喫茶やマッチ欲しさに行った店、私立の女子高の奴らがうようよいる喫茶店や街の奇人がたくさん集う店などに毎日毎日修行のように行っていた。
 それがいつのまにか酒のある店になった。そして昼間は喫茶店に行き、夜は酒の店に行くようになった。忙しいけどそれが俺のすべてだ。
 今は自ら喫茶店には行かないけれど近所のご年配から呼び出されるのは朝のイノダコーヒ本店だし、昼下がりは三条店のカウンター、ご婦人からのお誘いはスマートコーヒーが多いし、パ・リーグの先輩は市役所の北の喫茶エイトに一杯のコーヒーで少なくとも一時間以上は週刊誌を読んでいる。
 街の喫茶店が少なくなってきていることは街に水がなくなってきているのだと思う。動物は水場に集まるのだ。俺のすべては水である。いつまでもあると思うな親と金か。さあ喫茶店に行こう。

洋酒天国。

f:id:vackey:20150304222335j:plain竹鶴もスーパーニッカも好きだがやっぱり俺はサントリーが好きだ。酒の味ではなく何だか好きだ。写真の洋酒天国は昭和三十年代のもの。俺が生まれた頃だ。中も外も実に洒落ている。編集長は開高健で、山口瞳が入社するかしないかの頃だ。この冊子の中に「やり過ぎるぐらいやって、ちょうどいいのだ」という世阿弥の教理がどこかにあった。いかれている。

面倒だけど、シアワセ。

    それにしても食べ物屋というか飲食店が増えた。街を歩いても電車を降りても国道に行っても静かな住宅街でも、いたるところに飲食店がある。いつから比べて増えたのか。40年前なのか、この十年で急激に増えたのか。
 どちらにせよ飲食店が増えた分だけ家の食卓が減っているような気がしてとてもせつなくなる。今もそうだが子供の頃は家の食卓こそが家だった。
 また街から店の多様さがなくなり増えるのは飲食店やコンビニばかりというのも胸を締め付ける。
 私が子供の頃に暮らしていた本町界隈の町内には、荒物屋、クリーニング屋、本屋、和菓子屋、豆腐屋、散髪屋、写真館、魚屋、八百屋、タイ焼屋、履物屋、かしわ屋、瓦屋、新聞屋、ミシン屋、時計屋、電気屋、駄菓子屋、自転車屋、うどん屋、銭湯、漬物屋、竹材屋、工具屋、酒屋、お好み焼屋、煙草屋があった。わずか一つの町内にこれだけあった。
 それが現在この町内に残っているのは散髪屋、写真館、新聞屋、自転車屋、竹材屋のわずか5軒!しかない。そのかわりにチェーン店系の24時間営業の食堂1軒とコンビニ1軒が出来ている。
 大手チェーンの店やコンビニは安くて便利だし私も利用するが、降って湧いたようなゴキゲンはそこからは得にくいし、それがないことを前提にした商売なんだと思う。
 けれども専門店は、何かを買うためにその店へ行ったのに帰りには思っていなかったものを買っていたりする。それこそが人のいるところで生きるシアワセなんだと思う。 
 錦市場の川魚屋に鰻を買いに行って泳いでいる岩魚を買って帰ったこともあるし、街の塗料屋にニスだけを買いに行ってその店を出る時にはカシューという塗料の「たいしゃ」という聞いたこともないような色の塗料と上等な刷毛と塗装の知識を持っていた。
 安くてすぐに食べられることだけを求めたり、知っているモノを買うだけでは本当につまらないと思う。人がいる店で食事をすれば良くも悪くもいろいろあるし、その道のプロがいる店に行けば知らなかったモノや知識と出会うことが出来る。
 安くて便利もいいが、「面倒だけどシアワセ」もいいと思う。そうでないと乾いてしまう。さあ、今夜も湯気のある店へ行こう。
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